Photo : Erina Takahashi
Edit & Text : Shin Kawase

HIKO MIZUNO COLLEGE of JEWELRY
“SHOE MAKER COURSE” 15th ANNIVERSARY
Hiko Mizuno OB’s now and the future
#4 MIZUNO
~ヒコ・みづのOBの今と未来を取材するドキュメンタリーレポート 第4弾~

『SHOES MASTER』創刊当初から取材している専門学校ヒコ・みづのジュエリーカレッジ「シューメーカーコース」。今やシューズ業界関係者から注目を集める専門学校の代表格となったヒコ・みづの。OB達は今、現場でどのような仕事をしているのか?次世代を担うシューズクリエイターを紹介する第4弾は、創業115年目を迎えたミズノのスタッフを紹介する。

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Mizuno’s new brand launched
in February 2019 rhrn

RIGHT
HERE,
RIGHT
NOW.
今がその時。

昨年2月、スニーカー業界に衝撃が走った。ニュープロジェクト“KAZOKU”が話題を集めていたミズノが、また新たなレーベル“rhrn”(アールエイチアールエヌ)を誕生させたからだ。rhrnは、ドーバー ストリート マーケット ギンザで販売されると即完売し、ファッション業界からも注目を集める存在となった。そのrhrnの名付け親であり、rhrnのすべてに関わっているのがヒコみづのOBの齊藤健史氏。彼を取材するためミズノ東京本社を訪ねた。

Lifestyle Planning Section
Planning Department
Global Footwear Product Division
Takeshi Saito (MIZUNO)

齊藤健史
ミズノ株式会社
グローバルフットウエアプロダクト本部
企画部
ライフスタイル企画課

学生時代から入社するまで

–––ご出身は?
千葉・行徳で生まれて、千葉県内を何度か引っ越しましたが、基本的には津田沼で育ちました。

–––やはり小さい頃からスポーツを?
はい。小学生の頃は、陸上、バスケ、野球、水泳の4つを掛け持ちしてやってました。中学校から高校までが陸上部でした。あと物心ついたころから親に連れられてスキーもしていて、今でもシーズンになると行っています。

–––4つはすごいですね。自ら志願して?
最初は親ですね。船が沈んで泳げなかったら困るだろうと水泳。バスケは友達がやっていたから、ミニバスに入って。野球は父親が巨人ファンで大の野球好きだから、少年野球に入れられたって感じだったんですけど(笑)。でも俺、あんまり球技向いてないけど、人より足は速いなって気付きはじめて。だから、盗塁とか代走で走塁だけ出されたりしてました。それで中学から陸上に絞って陸上部に入ったんです。

–––陸上部だったんですね。種目は?
ハードルでした。高校の先生が、たまたまハードルの当時の現役オリンピックコーチだったんです。僕、背が小っちゃいんですけど、一応跳躍力があって足が速かったのでハードルを選びました。普通に走ったら、ある程度身長がある上に脚力があって足が長い人が勝つけど、ハードルという障害ができることによって、ハードリングが上手い人が勝てるチャンスがあるんです。足が長いほうが有利なんですけど身長は関係ないから。

–––高校時代は本格的にハードルをやってたんですね
そうですね。中学の大会では大会記録とか出していたんで、先生に頼んで全日本合宿に参加させてもらったことがあります。でも世界レベルの選手たちと一緒に走ると箸にも棒にも掛からなくて…世界の空気を肌で知って分かったんです。日本代表になって世界で活躍するのは無理だって。でもこの世界に関わりたいと思いました。そう考えた時、陸上部ってシューズが唯一のギアなんですよね。だからシューズに対しての思い入れがすごく強かった。アスリート達をサポートするシューズを作りたいって、その時に思ったんです。

–––それでヒコ・みづのに入学したんですね
いえそれが違うんです。高校卒業後は、建築の仕事をしている父親の影響で建築学科がある大学に進学しました。大学時代は、ひたすら建築の図面を描いて模型を作っていました。

–––大学卒業後にヒコ・みづのですか?
いえ、その時はまだ、ヒコ・みづのに「シューメーカーコース」が開設されてなかったんです。卒業後は電器雑貨メーカーに入社しました。

–––建築関係の仕事じゃなくて、なぜ電器雑貨メーカーだったんですか?
大学在学中に、父親と一緒に設計した実家を船橋に建てたんです。工務店さんにも入ってもらって。その時に建築ってこうなんだなって思ったんです。リードタイムが長くて、ヒューマンスケールじゃなかった。あと、建築に関して自分の中で創造の限界があったりとかして…。もうちょっとスケールダウンして、ちゃんと自分の手で分かるようなヒューマンスケールのプロダクトを作りたいと思ったんです。電器雑貨メーカーに入社した時は、ちょうどiPodが出てきた頃で、大手じゃなくてもヘッドフォンとかスピーカーとか気軽に買えて、つなげて、しっかりした音が出ればって時代の走りでした。ほとんどの家電量販店に並んでいる位のブランドだったんですけど、パッケージデザインとMDも一緒にやるような感じで全部やっていました。新人なのに色々任せてやらせてもらえるんですけど、なんか気付いたんですよね。あれ、俺、このままでいいのかなって。一番やりたいことあったでしょうって自問自答した時に、やっぱり靴がやりたいなと思ったんです。どうせやるなら、どうしてもナイキに入りたいっていう強い思いがあったんです。そんな時期にヒコ・みづの「シューメーカーコース」のパンフレットをたまたま見せてもらって。

–––誰に見せてもらったんですか?
中田靴木型製作所で木型を削っているモデリストで、同級生のお父さんです。本当にたまたまなんですけど。同級生の家に遊びに行くたびに木型が置いてあって。何、これって聞いたら「靴って、いきなりできるわけじゃないんだよ。木型を作って、それを削って削って調整するんだ。その削り方によっては全然足入れの感じが変わるんだよ」って教えてくれて。そこからどんどん面白くなって靴がやりたいって気持ちが俄然強くなった。「タケちゃん、これ知ってる?」とか言って、「今度、新しく靴の学校できるらしいよ」って言われたんですよ、お父さんに。それがヒコ・みづのの「シューメーカーコース」だったんです。

–––でも、その時は電器雑貨メーカーの社員ですよね?
はい。その時は社会人1年目だし、「シューメーカーコース」もまだ立ち上がったばかりだから、どうなるか分からないし、ちょっと人生を懸けるには怖いかなと思ってたんです。でも社会人として2年が経つと自分の中で、もう行きたいなと、そういう気持ちになっちゃったんです。その時にパンフレット見たら、ナイキ本社海外研修っていうのがあって。入社は無理でも本社行けるだけでもいいや、と思って入学を決めたんです。

–––会社に勤めながら「シューメーカーコース」に通ったんですか?
いえ、会社を辞めて。だから貯金も全部おろして、親にもちょっと借金して入学金を払ったんです。3年生コースがよかったんですけど、大学、社会人やって時間もないし、お金のこともあったので2年生コースにしました。2年で何とかして、靴で生きていける人間になろうって決めたんです。

–––そうだったんですね。学校生活はどうでしたか?
父親と一緒に建てた実家(船橋)から学校がある渋谷まで通いました。ヒコ・みづのに通ってる頃は、とにかく競争じゃないですけど、学校の中で1番になれなかったら、社会に出て絶対に1番になれないし、使い物にならないと思って、もうとにかく必死でした。ナイキジャパンのインターンに選ばれるために、ずっとやっていた甲斐もあって2年生の時にインターンに選んでもらえたんです。当時は天王洲アイルにあったナイキジャパンに2カ月間、インターン研修させてもらいました。その後、当時、中目黒にあったデザインスタジオへ移ってデザインチームのインターンを3カ月間やらせてもらいました。

–––卒業後、ナイキジャパンですか?
いえ。インターンやったからって新卒でナイキジャパンが採用するわけでもないんです。だから卒業前、僕だけ就職先が決まってなかった。数社お話を頂いたメーカーさんはありましたが…。同期のみんなは全員就職が決まってたんですけど、どうしてもナイキジャパンで働きたかったんです。会社を辞めて、貯金をはたいてまで学校に行ったのに…どうしても諦められなくて8月までの4カ月位、完全なプー太郎状態でした。でも、このまま何もしないで、ましてや靴の仕事もできてない自分が嫌で嫌でしょうがなくなって、ナイキジャパンを諦めて他のメーカーで就職を探そうと思っていた時、インターンでお世話になったナイキジャパンの方から「実はな、1個枠が空きそうやねん。若い子を推薦しようと思ってて。齊藤君、どう?」って連絡があったんです。それで晴れて8月からナイキジャパンに入社したんです。約10年在籍しました。その次がミズノになります。

–––なぜミズノを選んだのですか?
ナイキのグローバル化が進んで、中目黒にあったナイキ東京デザインスタジオ(当時はナイキ東京デザインポッド)も撤退して。世界で足並みを揃えるため、ナイキジャパンでのフットウェアーの日本企画自体がなくなってしまったんです。そこで、また自問自答が始まって…。その頃は、後輩がどんどん活躍して、靴で面白いことをやって楽しそうな顔見てると、やっぱり靴作りたいって気持ちが強くなったんです。そう思った時に唯一浮かんだのがミズノだったんです。財産がすごくいっぱいあるのに、いわゆるライフスタイルのカテゴリーに来てないブランドってなると、ミズノしかなかった。ミズノに知り合いが全くいなかったので2017年の夏にナイキジャパンを退社して、ミズノの本社がある大阪に一人で面接に行きました。

–––そうだったんですね。今みたいな服装で?
いえいえ、髪の毛は、ぴっちり横分けにしてスーツで行きました。

–––面接はどうだったんですか?
広い会議室にスーツを着た重役の方たちが、ずらーと並んでいたんです。本当に緊張して、どうしようみたいになったけど、自分が今まで何をやってきたかを一通り見てもらいました。でも、皆さん何も言ってくださらないんですよ(苦笑)。もうすでに“rhrn”の構想はあったので、これからミズノで何をしたいかをプレゼンしました。それで何とか採用になったんです。その後、大阪本社のランニングの部署に配属され、子供を引き連れ、家族みんなで東京から大阪に引っ越しました。

入社後の仕事の内容

–––最初はランニング担当だったんですね
ランニングの国内担当で、いわゆるMD※というかプロダクトとMDですね。結構うちは特殊なのかもしれないですけど、MDプラス、プロダクトをまた持つんですね。グローバルプロダクトを。プロダクトマネージャーでありながら、プラス、プランニングもやるんです。最初は、ミズノが国内で一番売ってる人気シューズ、マキシマイザーという4,500円のシューズを、さらに売れるためのプランを考えるように、という指令が出され、担当していました。
※MD:Merchandising / マーチャンダイジング(商品計画)

at MIZUNO TOKYO
東京本社のすぐ近くにあるミズノの直営店でスタッフと情報交換。
齊藤氏は頻繫にここを訪れ、消費者動向を調査している。

at MIZUNO MEETING ROOM
グローバルフットウエアプロダクト本部スタッフとのミーティング風景。
真面目な議論もあるが、基本的に明るく楽しい雰囲気が印象的だった。

–––ウエーブエアロも担当してますよね?
はい。入社して2年目から、マキシマイザーだけじゃなく、本格的なパフォーマンスランニングシューズ、ウエーブエアロも担当することになりました。それこそ貴誌の兄弟誌『Runners Pulse』の南井編集長も昔からバリバリ履いてくださってたモデルです。ウエーブエアロって、昔は市民ランナーから一番支持を受けていた靴だったんです。ナイキジャパンにいた頃からベンチマークしてるぐらい、本当にめちゃくちゃ売れていました。ただ、今は全然変わってしまって、存在はしてるんですけど、もう下火になっていました。前担当者から、名前を変えてもいいし、モデルチェンジしてもいいよって言われたんですけど、17代も続く歴史があるんだから、絶対に残したほうがいいと思ったんです。僕自身もよく知っている名前ですし、少なくても大好きな人はずっと買い続ける靴なので。でもランニングの時だけとか、フルマラソンだけっていうパフォーマンスランニングシューズの作り方は、今は市場とは違うと感じていました。以前、僕も参加していたAFEランニングチームは、ランニングシューズを履いて仕事終わりに来て、銭湯で着替えて走ってご飯食べて、またクラブに行くみたいな、そのすべてを1足で完結していたんです。今の時代は、そういう使い方をされるような靴じゃないと、ある程度の値段がするランニングシューズは買いにくい。だから、ウエーブエアロの見た目を現代のそういうシーンに設定しスタイリッシュに変える、スペックは市民マラソン・市民ランナー向け、学校のレギュレーションが関係なければ格好良くて速く走れれば買ってもらえると思うからそういう目線で作りたい、って18代目の企画をスタートさせました。しかも18番なんで野球でいえばエースナンバー。僕は松坂世代なので松坂選手をイメージしてエースナンバーを背負って、もう一度カムバックさせたいと思いました。そしたら、見事に『Runners Pulse』の2020年号の表紙を飾ることができました。

Runners Pulse Vol.06(2020年春夏号)
http://runnerspulse.jp/rp200220

–––“rhrn”も同時進行って感じだったんですか?
そうですね。ランニング担当からオーバーラップして、スポーツスタイル(ライフスタイル)も手掛けるようになりました。ミズノが開発したインフィニティウエーブのソールは、ナイキのエアであり、アディダスのブーストであり、アシックスのゲルであるぐらい、ミズノのアイコニックな財産です。パフォーマンスカテゴリーだけども、今、市場が欲している。今のスニーカーマーケットは、話題のブランド一辺倒になりながらも、もう早い人たちは離れているし、次のブランドを探している。パフォーマンスランニングシューズに所属してるけど、ランニングじゃないチャンネルマーケットに持っていかせてくださいって頼んでやらせてもらったんです。

rhrnは、インフィニティ・ウエーブのソールに立体的に編み上げたニットアッパーの
コンビネーションにより、かつてない履き心地を実現した画期的なモデル。

–––インフィニティウエーブを今の世の中に出したのも齊藤さんってことですね
どうなんでしょう。でもまあ、そうですね。でも、これからいっぱい出てきます。実はまだ言えないんですけど、めちゃくちゃ言いたいやつがあるんです。履き物の捉え方じゃなくて、今までなかった新しいもの。コラボレーションするんですけど、今までの捉え方と違うコラボレーターの方で、実はプロフェシーソールもゼロから僕が開発させてもらって。打ち出し方も、ちょっと変えていく壮大なプロジェクトです。できれば、貴誌でインタビュー取材して頂いて、ミズノ初となる『SHOES MASTER』の表紙を飾るイメージです(笑)。

–––売り込みされてしまいましたね(笑)。“rhrn”はすべて担当したんですよね。
そうですね。プロダクトを作るだけじゃなくて、プロモーションまですべてやりました。プロモーションもランニングシューズとして出すのか、スポーツスタイルとして出すのかによって、そこに付随するチームが変わってくるんです。rhrnが出来上がったら、いつローンチして、どういうプロモーションするかっていうのをマーケティングチームに話をして。そしたら、「齊藤さんはすでにビジョンがあるから、マーケティングチームが作るんじゃなくて、齊藤さんが直接、制作プロダクションさんとやり取りをして作ってください」って言われて。で、すべて全部やることになったんです。ブランド名、ブランドコンセプトからコピーライト、平面のビジュアルからムービーまで、イメージは固まっていたので大変でしたけど楽しかったですね。モデルや撮影する背景もイメージが固まっていたので、自らロケハンに行ったり、モデルの選定も参加したりして。

–––第1弾モデルを思い付いたきっかけは何だったんですか?
そもそもアッパーにミズノとトヨタ紡織の共同特許の素材を使いたかったんです。普通、靴ってシューレースアップじゃないですか。だけどシューレースもない。でもシューレースがなくても履くと足をしっかりサポートしてくれる。というか、足に吸いつくみたいなイメージで靴が作れればいいなと思いました。

足を入れたら、足の形が出る。もう靴下みたいなもんです。柄がこれだし、自分の足がもりって出てくるから、イメージは「コブラがウサギ食べた時のお腹」。靴って人間が履いて消費するみたいな形で捉えてるけど、靴主観になったら、靴が人間を足から食べ始めてるみたいになったら面白いと思ったんです。

このモデルを生み出すヒントになったのが、このダンゴムシのおもちゃ。ダンゴムシの構造からシューズのイメージを具体的に形にしていったそうだ。

–––rhrnは、シューズだけじゃなくアパレルも人気ですよね
はい。靴だけで完結したくなかったんです。幸いにrhrnのコンセプトにアパレルチームも賛同してくれて一緒にやりました。アパレルに関しても、ミズノは色んな技術を持っていて、金メダルを取らせるための素材開発とかもしています。素材自体は一般消費者向けじゃないけど、アプローチを変えれば、一般の人にも絶対届けられる自信があった。普通は絶対に着られないものを、カタチを変えて着られるようにするのが、ミズノの価値であり、ミズノが与えられる格好よさだと思ったんです。コストが上がるから上代は高くなってしまうけど、ミズノを選ぶ理由になる。だから、ファーストコレクションからアパレルも一緒にやれたのは個人的にも本当にうれしかったですね。

–––デビューコレクションでいきなり、ドーバー ストリート マーケット ギンザに置かれてましたね
はい。rhrmを企画した時から、一番置きたい場所がドーバーだったんです。だから、ドーバー担当者の所へrhrnを置いてもらえないかと交渉に行きました。そしたら、ドーバーの方がアプローチの仕方が面白いと言って色々と協力していただきました。発売日に店内のマック3台全部にrhrnのムービーが流れた時は感動しましたね。でも、発売当日はギャルソンとナイキのコラボレーションモデルの発売日とバッティングしちゃったんですよ。もちろん、そっちの行列が長かったんですけど、rhrmにも並んでくれていたんです。ギャルソンとナイキに並んでいた人が、ミズノの列じゃないんだって言って、その列を離れてrhrnに来てくれた方たちが3組ぐらいいらっしゃって、その場で買ってくださったんです。僕、うれしくて、なんでrhrmを買ってくれたのかって聞いたら「こっちのほうが面白いっすよ。あと、このビジュアルでやられちゃって、こっちに来ました」って言ってくださった。実際に生の声も聞けて、自分がやってることは間違ってなかったと実感しました。

–––齊藤さんの仕事のやりがいって何でしょう?
ミズノの中にずっとあるものに、アプローチを変えて、日本ブランドの底力を僕というフィルターを通して紹介して、それを受け入れてもらえたら、こんなやりがいのある仕事はないと思います。日本人だったら幼少期から、絶対一度か二度はミズノに触れているけど、どこかの時点で離れちゃう。でも全員知ってるじゃんっていう本能的な部分に、あえてアプローチして「ミズノってやっぱかっこいいじゃん」って言わせたい。僕はゼロからrhrnを作ってるわけじゃなくて、要は価値観を変えただけなんです。それはプロダクトだけでなく、ビジュアル含め全部、今までのミズノっていう概念を壊して、ミズノの方がかっこいいって消費者の価値観を変えること。消費者の壁をぶち壊して、ミズノの壁もぶち壊して。欧米人にはない、日本人が持つ繊細さから作り上げられる高い品質、クラフトマンシップを体現してもらえたらと思っています。

–––齊藤さんが考える「この仕事をする上で一番大切にしていること」を教えてください
まず自分がワクワクするかどうか。ネットの画面見てクリックひとつで買える時代ですけど、物が届いてがっかりすることも少なからずあると思うんですよね。作り手の想いは、絶対に物から伝わると思っているんです。だから、まず自分が作っていて、ワクワクするかしないか、それを一番大きな指針にしています。だからrhrnのリリースは不定期なんです。満足のいくプロダクトが完成した時点で、満を持して発売することに決めています。次は夏ぐらいの予定なので楽しみにしていてください。

–––将来の夢を聞かせてください
普段履きのスニーカーとしても、他社ブランドと並列に見られるようになること。スニーカーブランドとして唯一無二の個性を持つブランドだと思われ選ばれる将来が来ること。それが僕の一番の夢です。

–––ヒコ・みずの「シューメーカーコース」の後輩にアドバイスをお願いします
学校が全部教えてくれて、学校が教えてくれることだけやっていたら就職できるとか、満足できるところに行けるとは絶対思ってちゃいけない。学校でやることは最低限のこと。社会に出たらすごい先輩たちがいっぱいいる。だから、まず学校内でも勝ち抜かないといけない。プラスアルファ何かやってないと、スタートラインにも立たせてもらえない現実があるから。でも最後に0.1パーセントの可能性を信じろと言いたい。無理だと思って自分が諦めた時点で、すべてが終わってしまうから。これは僕が体現してるので言えると思う。

 

Voice of Partner
“Masatoshi Yamaguchi”
MIZUNO
Lifestyle Planning Section
Planning Department
Global Footwear Product Division

今回取材した齊藤氏が所属するのが、2016年に新設されたライフスタイル企画課である。ミズノ スポーツスタイルからリリースされるスニーカーは、すべてこの部署から発信されている。実際のところ、齊藤さんの働きぶりはどうなのだろうか?ミズノの生え抜き社員であり、一番近くで見ている上司の山口昌利課長に聞いてみた。

山口昌利
グローバルフットウエアプロダクト本部
企画部
ライフスタイル企画課
課長

–––齊藤さんの仕事ぶりについて教えてください
本当に物づくりが好きな人だなって感じますね。1年前から一緒の部署になったんですけど、一緒にやる前から思っていました。夜遅くまで残って熱心に一生懸命やっている背中を遠くから見ていました。

–––実際に一緒にやるようになってどうですか?
コミュニケーション能力の高さをすごく感じましたね。彼を見てすごいと感じたのは、我々グローバルフットウエアプロダクト本部スタッフである開発担当とかデザインチーム、あとは他のカテゴリーの企画担当者とも、とにかくよく話をしているんです。スポーツスタイルっていうカテゴリー自体が、独自の商品を作り出すっていうよりは、色んな部署を繋いでてうまく組み合わせたり、昔の物を作り直したりすることが多いこともあると思うんですけど。本当に色んな人としゃべってネタを探していて、色んなものに興味があるんだなあと。あと、ランニング以外の他のスポーツカテゴリーの方にまで、よく目が行っていて、担当スタッフに聞いて細かく調べているんです。カテゴリーにこだわらず、いいと思えば、いち早くそれをスポーツスタイルに取り込もうという意識がすごく高い。それと、ミズノは自分で考えたことが結構ダイレクトに物に反映できるので、彼にとって大きなやりがいになっていると思います。実際に彼と話していても、そのようなことを言ってましたし。

–––部下として力強いですね
すごく頼りにしています。シューズの専門学校で靴の構造も勉強してますし、他メーカーで長年に渡ってシューズの仕事に携わっているので、知見も多いです。あと、今まで見てきてるものが生え抜きのミズノ社員とは違うので、ライフスタイル企画課の仕事に合っているし、それが彼の強みなのかなと思います。

–––今後、齊藤さんに期待することは?
スポーツ競技用ではなく、街で履いてもらうスニーカーを提案するスポーツスタイルというカテゴリーは、2016年から始めて、まだ2、3年なんですね。僕らも勉強しながらやっているところが多い中で彼の存在は大きい。ミズノにとっても重要な情報源だと思います。ミズノが今まで本格的にチャレンジしてこなかった未知のカテゴリーなので、彼が知っていることは、どんどん還元してほしいと思っています。

–––齊藤さんが企画したrhrnについては
彼に期待しているのは、外から見たミズノ。僕らの気付かない外から見たミズノの良さを、上手く融合させて新しいミズノの一面として、ユーザーさんに発信していってほしい。彼自身もお洒落ですし、顔もかっこいいなって僕は思っています(笑)。だから、ミズノっていうブランドに憧れをもってもらうための格好よさを彼には追求してほしい。そういう意味では、彼がやっているrhrnは、彼にしかできないし、適任だと思います。

–––山口さんが考える、シューズを企画する上で一番大事なことを教えてください
シューズの知識や足の知識など、基本的な情報は絶対に必要だと思うんです。ただ、我々は企画なので、企画として本当に大事だと思うのは、その商品に対する情熱ですね。作った商品をお客さんにお金を払って買っていただかなきゃいけないので。お金を出して買うってことは、買う行動に移るために心が動いているはずなんですよね。だから、人の心を動かさなきゃいけないわけです。僕も物を買う時は、これ買ったら、こんなことが自分に起こるんじゃないかって想像しながら買う。だから僕らは喜ばれる商品を作らなきゃいけないんです。それにはやっぱり、作る人が楽しんでなきゃ、お客さんを喜ばせられないと思っています。もちろん僕も作っている過程ですごく大変だったりして、当然生みの苦しみも沢山あります。でも、物を作るって「これができたらお客さんは、こんな風に喜ぶかな」みたいなことを想像できないといい物なんて作れない、と信じているんです。お客さんが喜ぶものを生み出すのは、暗いやつにはできない。「自分が楽しく生きてないと人も喜ばすことはできない」っていうのが僕のポリシーです。

–––ヒコ・みづの「シューメーカーコース」の学生に一言お願いします
ミズノはもっとグローバルで戦える会社になりたいと思っています。そのためには今の若い人たちがグローバルで戦える人材として、社会に出てきてほしい。もしくは社会に出てから、それを目指してほしいなと思います。日本の物づくりの技術は、海外からかなり高い評価を得ています。靴作りにおいても、ぜひ日本から海外に発信できるような人材を目指して、皆さんに頑張ってもらえたらいいなと思います。

–––グローバルに戦える人材になるために今、何をしたらいいですか?
世界の中で日本がどうあるべきかってことを常に考えていたらいいんじゃないかなと思います。人それぞれ答えが違うと思うけど、自分なりの答えを見つけて、それを発信してみるとか。それだったらお金もかからないですし、今日からすぐにできることですよね。そういう心掛けを持ちながら日々暮らしていけば、かなり違ってくるんじゃないかって思います。

About MIZUNO
1906 年、水野利八が大阪に小さなスポーツ用具店を開いて以来、ミズノはスポーツ発展のためのモノづくりにこだわり続けてきた。そして、ミズノのモノづくりは常に技術革新とクラフトマンシップの融合によって、創業の理念を守り続けている。そんなミズノが、革新と伝統の中で生まれてきた製品に、現代的な解釈をこめて作り上げるのが、ミズノのスポーツスタイルであるMIZUNOだ。このコレクションはアスリートのために培ってきた全てを込めて、新たなスタイルを作り上げている。

取材協力:
ミズノ株式会社
東京都千代田区神田小川町3-22
0120-320-799
www.mizuno.jp

INFORMATION
専門学校ヒコ・みづのジュエリーカレッジ
東京都渋谷区神宮前5-29-2
0120-00-3389
www.hikohiko.jp

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